舞台『毛皮のマリー』

image-舞台『毛皮のマリー』 | 名古屋池下のキックボクシングフィットネスジム

舞台俳優の三宅克幸さんからお誘いを受けて、初めて美輪明宏さんの舞台を観に行きました。

三宅さんとの縁は2015年。

私が現役を引退した直後にK-1からいただいた仕事で、彼のキックボクシングの師匠になったのです。1日だけね。

それから公私共に、ちょっと仲良くさせてもらっています。

ちなみに彼も佐藤嘉洋ランキング選考員に登録されていて、良い子がいると画像を送りつけてきます。

そして私は言うわけです。

「ほほう……」

と。

とりあえず買ってしまえ!!

この日の舞台は行けるかどうかわかりませんでした。

しかし、誘われた日にチケットを購入することを伝えました。

行けなかったら誰かに譲ればいい。

速攻で注文したおかげで、間違いなく一番良い席を取ることができました。

チケットは全席同じ値段。

躊躇してあーだこーだ迷うよりも、

ええい! とりあえず買ってしまえ!!

と思い切った結果であります。

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私はこの舞台、何の予備知識もなく観に行ったので、正直最初は少しわかりづらかった。

しかし物語が徐々に進んでいくうちに、その妖しさに引き込まれていった。

後から知ったのだが、『毛皮のマリー』は寺山修司作の1960年代から上演されている歴史ある作品だそう。

尊敬している哲学者・執行草舟さんも仰っていたが、30年以上もの長い年月残っている作品には、間違いなく何かしらの魅力があるし、学びもある。

私は美輪明宏さんのことはTVでしか見ていない。実物を見るのはこの日が初めて。

特に休憩後の第2部からのオーラは霊感のない私にも伝わった……気がする。

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舞台では差別用語のような言葉も連発している(私はまったく不快ではなかったが)。

購入したパンフレットにも「言葉狩りの時代」「言葉が差別されている」というコメントが残されており、あえてセックス、睾丸、びっこなど、使うのは憚られる言葉をわざと使っていたことに気づき、深く納得した。

大体、差別用語ってなんですか?

褒め言葉で、

気狂い(きちがい)

と使う場合もあるのに、今やメディアはとても(よくわからない)配慮をして、使用を避けている。

言葉というのは……

昨今では、障害者を障がい者、という文字にしているが、これも数年後には世の中の頭のおかしい連中に指摘され、そのうち障害者の「障」も「障るには『嫌なもの』という意味もあって失礼だ」ということになり、「しょうがい者」という表記になるかもしれない。

そして次は、平仮名だけで表記するのは頭が悪そうで失礼だ、ということで、今度はローマ字になって「SHOGAI者」という表記になるかもしれない。

そして最後には、この世の中から「障害者」という言葉が消え去ってしまう可能性がある。

身体に障害があるのだから、障害者で何が悪いのだろうか、と個人的に思う。
障害者は差別用語だ! と頭のおかしい人たちが怒るから、障害者の人たちも余計に意識してしまうのではないだろうか。

別に蔑んでいるわけではない。

障害者の方が、障害者と表記されて蔑まれた気持ちになるのは、伝え方にもよるけれど、自分自身の心の問題という可能性もあるのではないだろうか。

パンフレットでの美輪さんの対談相手、麿赤兒さんの言葉が深く染み渡った。

表現するものとしての言葉には二面性がありますよね。

「びっこ」という言葉で、人が元気になることもあれば、落ち込むこともある。

言葉というのは、つかい方によって活人剣にもなれば、殺人剣にもなるんですよ。

しかしながら、今の日本のように、世界に類をみない平和で安定した国は、これまでの異常な配慮・警戒・排斥のおかげもある。

何かを得れば、何かを失う。

自分はそんな中で、中庸の精神を持つことができるよう、日々努力・勉強・工夫ができるか。

いやあ、舞台にしろ、映画にしろ、音楽にしろ、文章にしろ、イラストにしろ、芸術は素晴らしいですね。

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佐藤嘉洋