戸谷友則著『宇宙の「果て」になにがあるのか』
アインシュタインの名言
想像力は知識よりも大切である。知識には限界がある。想像は、世界を包み込む。
私は知らなかったけれど、アインシュタインの有名な言葉だそう。文中にあった。
ポテンシャルエネルギーという概念も学んだ。
ポテンシャルエネルギーとは、
物理学に登場する基礎的な概念で、ある物体の状態が、潜在的(ポテンシャル)に高いエネルギー状態にあり、なにかのきっかけさえあればそのエネルギーを解放できるような状態を指す
らしい。
これを人間に置き換えてみると、ポテンシャルエネルギーは才能で、努力の積み重ねやタイミングなどのきっかけによって、その才能を開花させるということだろうか。
今度物理学が専門の武田邦彦先生に雑談がてら聞いてみよう。
宇宙の話は謙虚さを取り戻してくれる
革命を起こすのは常に非専門家である
こちらは司馬遼太郎の小説の中に出てくる言葉だそう。
宇宙の話と聞くと理数系を思い浮かべるけれど、この筆者はユーモアを兼ね備えており、難しい話もかなり噛み砕いて説明してくれていた。
それでも宇宙の話は壮大過ぎて、ちんぷんかんぷんの部分も多い(だから宇宙の話は好き)。
しかしながらこの本のおかげで、一般相対性理論、特殊相対性理論の話が、ようやく1%くらいわかったような気がする。
今、地球から見ている太陽の姿は、約8分20秒前の太陽だ。
光にも速さがあるからだ。
我々は過去の太陽を常に見ている。
もしもたった今、太陽が跡形もなく突然消えてしまったとしても、その現実を肉眼で知ることができるのは、約8分20秒後ということになる。
私がJKFの受付からサンドバッグにパンチやキックを打ち込んでいる会員さんの姿も、ほんの一瞬ではあるけれど、過去の姿なのだ。
また、光は必ずまっすぐ進んで行く訳ではなく、途中で何らかの原因、たとえば重力によって歪んだり、吸収されたりする。
光を吸い込んでしまうくらいに重力の重い星、それがブラックホールであるとも考えられている。
時間の流れが一定でないのは、皆さんもご存じのことだろう。
つまらない時間は長く感じ、楽しい時間は短く感じた記憶はないだろうか。
時計の針がすべてではない。
キックボクシングの試合で、パンチを効かされたときに走馬灯を見たことが何度かある(もう効かされたくはない)が、その一生の長い思い出は1秒にも満たない。
自身が実際に経験しているので、私は時計の針が時間の流れのすべてだとは1ミリも信じていない。
太陽と地球の距離は、1億4960万km。
地球の赤道の長さが約4万77kmということを考えると、途方もない距離だということがわかる。
ちなみに、北極と南極の距離と赤道の距離は違う。
なんと、地球は真ん丸ではないのだ!
(名古屋大学教授の友人に教えてもらった)
しかし太陽と地球の距離を光の速さで記すと、0.00001581光年。
ごく近くにも感じる。
1光年、などと宇宙の話になるとよく出てくるが、距離にすると、約9兆5000億km!
なんだてそりゃ!!
である。
そして現在、人類にとっての「宇宙の果て」は、なんと464億光年先まで伸びているとのこと。
なんだてそりゃ!!
なのである。
このような壮大過ぎる話を読んでいると、いろいろと考えさせられる。
宇宙とは何か。
幸福とは何か。
人間とは何か。
資本主義とは何か。
日本人とは何か。
新型コロナウイルスとは何か。
情報とは何か。
パニックとは何か。
恐怖とは何か。
勇気とは何か。
苦悩とは何か。
そして、何もかもがどうでもよくなる。
自分の存在とは、なんてちっぽけなんだと。
自分がまるで宇宙の中心にでもいて
「なんで自分だけこんなつらい目に」
「なんて自分は不幸なんだろう」
という錯覚に陥っている人も多い。私を含めて。
全く謙虚さが足りない。
宇宙の、壮大過ぎて、もはや偉大なスケールからすれば、まったく謙虚さが足りない。
宇宙の話は、いわゆる不幸方面に傲慢になった人間の心にも謙虚さを取り戻してくれる。
そう思っていたら、あとがきにまさに私の感じていた言葉を著者が記していた。
「果て」を探る問いかけは、結局のところ自らの限界と向き合うことになる。自らの小ささを知り、謙虚な気持ちになれることが、「宇宙の果て」について考えることの意義と言えるのかもしれない。
明るく生こまい
佐藤嘉洋